南禅寺の歴史
南禅寺は今から710年あまり昔の正応4年(1291年)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創されました。
亀山法皇は建長元年(1249年)、後嵯峨上皇の皇子として誕生され、10歳にして皇位に就かれました(第90代亀山天皇)。しかしご在位の頃より東アジアの情勢が緊迫し、上皇になられてからは蒙古来襲という国難に立ち向かわれました。
この頃、上皇は父である後嵯峨天皇が帰依されていた圓爾辧圓(えんにべんねん)禅師(無関禅師の師・聖一国師)に受戒・問法し、不動の心を持って危機に対処されたのでした。
国難去った正応2年(1289年)、上皇は離宮禅林寺殿で落飾(出家)され、法皇になられました。諱(法名)を金剛眼と申されます。「文応皇帝外紀」によれば、まもなく離宮に妖怪な事が起こりましたが、無関禅師は雲衲(修行僧)と共に離宮に留まり、坐禅・掃除・勤行と、禅堂そのままの生活を送られただけで妖怪な事は終息してしまいました。
法皇は禅師の徳をたたえて深く帰依され、正応4年離宮を禅寺とされました。
法皇と無関普門禅師の出会いはもっと早い時期にあったとも考えられています。開山に迎えられた無関禅師は、その年の12月に遷化(死去)されてしまいました。そこで翌正応5年、法皇は第2世として規庵祖圓禅師(南院国師)を選任されました。
禅寺といっても、離宮には伽藍として機能するものは一つもありませんでした。従ってその建立が規庵禅師に課せられたわけですが、入寺からおよそ15年の歳月を費やし、暫くその完成をみるに到ったのでした。規庵禅師が創建開山と呼ばれる理由です。伽藍のほぼ完成した嘉元3年(1305)9月15日、亀山法皇は嵯峨の亀山殿で御歳57歳をもって崩御されました。御陵は亀山殿の跡地に建立された天龍寺境内にあります。